まつり・台輪の歴史
FESTIVAL ROOTS
諏訪信仰と新発田
☆新発田地域に諏訪信仰が伝来し、地域に根づくまで
その昔、大和政権が「蝦夷(えみし)」とよばれる北方の勢力に備えるための防衛拠点とし、あわせて日本海側の支配権を拡大・維持するために、647年、現在の新潟市に渟足柵(ぬたりのさく)を、翌648年には現在の村上市付近に磐舟柵(いわふねのさく)を設置しました。
これに合わせて、信濃より多くの人々が、後に新発田となるこの地へ移り住み、諏訪信仰をもたらしました。この諏訪信仰は、移り変わる時代の当主たちに大事に扱われ、その時代ごとの適地に場所を変えながら、まちの発展とともに人々の心に深く根づき、この地を見守ってきました。
新発田藩と諏訪神社
☆江戸時代における諏訪神社の位置づけと役割の変化
のちに新発田が大いに栄える江戸時代――新発田藩・溝口家の時代になると、藩の安寧と五穀豊穣を司る神として新発田城内に安置されていた諏訪の神は、城外の武家地へ、さらに町屋の東へと、城下町の拡大整備計画に伴い、まち全体を守る総鎮守として現在の位置へと移されました。
これにより、新発田のまちを守るこの神は、さらにこの地の人々の心に寄り添う存在となりました。
しかし、夏の終わりに執り行われる祭礼は、当時はまだ藩主とその家臣の武家衆のみのものであり、町方の一般の人々が気軽に参加できるようなものではありませんでした。
それでも「自分たちもお諏訪様を盛り上げたい」という町衆の想いは強く、その信仰心とエネルギーは熱を帯びていました。
溝口直治の苦難
☆藩の危機と、安心を取り戻すための工夫
6代藩主・溝口直治公の時代、当時の新発田藩に存亡の危機とも言える苦難が訪れます。1710年代後半、信濃川や阿賀野川・加治川の濫が毎年のように繰り返されていました。また時を同じくして、諸国の商船の出入りや税金を巡って、河口周辺の流路変更や開発をめぐる「新潟湊」との訴訟の問題が発生するなど、当時の城下町には暗雲が漂っていました。
その中で、領民の不安を払い、暗いムードを吹き飛ばす施策として、直治公は人々が信仰する諏訪神社に高い位を授けてもらうよう、朝廷への働きかけを行いました。
台輪のはじまり
☆新発田祭「台輪」の誕生と発展
享保11年(1726年)直治公の働きかけは成就し、新発田の諏訪神社は朝廷より最高位である「正一位」の神階をいただいたのです。直治公は大いに喜び、この名誉ある昇叙を祝って「祭礼をより一層賑やかなものにするように」と町衆にお触れを出しました。
災害などで鬱屈とした思いを抱えていた町衆にとって、このお触れは待ちに待った「底力を見せつける場」の解禁だったのです。
「お諏訪様のお祝いだ、最高のものを見せてやろう!」――町衆の心に一気に火がつきました。大工、彫刻師、裁縫、漆塗りなど、地域の職人たちは持てる技術のすべてを注ぎ込み、各町内が競い合うようにして、精巧な飾り人形を乗せた壮麗な屋台(山車)や神輿、額面纏・伊達道具をつくり上げました。
殿様のお触れをはるかに超える熱量で、「俺たちの町の台輪が一番だ!」という町衆の意地と誇りが生まれたのです。
これが現在の「台輪」の始まりです。それから300年という長い年月にわたり、このまちの繁栄と各町内の誇り、そして人々の心とともに脈々と受け継がれ、今日に至っています。
かつての人々が想いを込めて築いた台輪の文化は、
三百年の時を越え、今も新発田の中に生き続けています。
令和8年(2026年)城下町の誇りである新発田台輪は、運行開始から300周年を迎えました。私たちはこのかけがえのない伝統を、皆様とともに次の100年へと繋いでいきます。
企画・運営
新発田市役所 観光振興課